2023 WINTER
野村 忠宏氏(柔道家)
柔道に出会えた幸せ
意識、継続、努力で未来は変わる
柔道家
野村 忠宏氏
▶畳に上がり一瞬の勝負にかける思い
―まず柔道の魅力、惹き付ける要因について。
野村 現役時代は、自分の目標に邁進しあまり考えていませんでしたが、今の立場になり一瞬の勝負に何年何十年かけて自分を作り上げ、勝敗はつきますが勝利し輝く姿も、敗退し涙する姿も美しいと感じます。
実際試合では、対戦相手、勝敗への不安、戦術、雑念含め様々な思考が頭をめぐります。畳に上がった時、ネガティブな思考をいかに切り離せるかで自分の場合、集中し切れていないと声援に気をとられる時もありますが、最高の状態だと自分の世界に入り込んだ感覚になります。畳の上では相手しか見えない状態です。
▶自ら目指した道へ、恩師の言葉で大きく変わった練習への意識
―中々結果が出ない時期もある中、柔道を続ける軸はぶれなかったのですか?
野村 高校3年生で奈良県大会で初優勝しましたが、大学入学時はオリンピックを言葉にも出せなかった。中高時代、組んだだけで恐怖を感じる強い選手が周りに多くいました。そのような中で、自分の実力を見極め、見合った目標を描き、自分を作り上げていった結果、気が付けば想像を超えた自分がいました。幼少期から柔道を始め勝てなかった自分が人との出会い、学びに気付きを得て、柔道選手としての可能性、未来が広がったと感じました。ただ、大学1年の頃はいつか来る引退の二文字は頭にあり、教員や柔道整復師など人生の選択肢も考えていました。実力の世界、現実を見る必要もあります。
―強くなりたい、飛躍的な成長を遂げられた要因は?
野村 練習への意識です。レベルの高い選手が集まる天理大学で、厳しい稽古を週6日やるのですが、「与えられたメニューをペース配分し、こなしているだけ。ギリギリの緊張感や鬩(せめ)ぎ合いの勝負で、それで勝ち抜けるのか?」と恩師である細川伸二先生の指摘に、自ら決めた柔道の道、目標なのにこなす練習、努力に満足している自分に気付かされました。以後、常に誰のため、何のため、これでいいのかとの自問、意識を持ち、臨むことで、練習の質が劇的に変わった。
努力して当たり前の環境で突き抜けようとすると、一つ一つの練習に目的、主体性を持たせることが必要です。当然結果が出ないジレンマもありますが、求める自分を目指すにはこの練習を継続することが唯一の道。基本的に練習もしんどいことも大嫌いですが、〝強くなりたい〟という想い、決めたのは自分、やり抜こうという一念でした。
▶「組み合い、一本を取れる選手を目指せ」との父の指導、目先にとらわれず続けた努力
―積み重ね、高めてこられたとのイメージを持ちます。
野村 天理高校入学時、私の体重は45キロ。県大会への出場も叶わず、初めて出たのは高校2年時でしたが、結果を求める私の柔道と天理柔道は別でした。天理柔道はしっかり組んで投げ技で一本をとる柔道。私は最軽量の60キロ級でしたが、肉体的ハンデは大きく組み合うとパワーで劣るため、俊敏な動きで相手を翻弄しチャンスを作る組み合わない柔道。これに対して指導者でもあった父から初めて「今だけ勝ちを求めるならそれでいいが、本物の実力を持った強い選手になりたいのであれば、今は勝てなくても、組み合い一本を取る技を磨きなさい」と指導を受けました。
小手先の柔道と否定された訳ですが、この一言がなければ今の自分はなかったと思います。大学2年生の頃にようやく筋肉もついて体重も増え、パワーある選手と組んでも力負けしない肉体ができ、今まで磨き上げてきた技術も活かせるようになった。つまり、組み合い、背負い投げで一本を取る野村の柔道スタイルが完成したのです。父の言葉を信じ、続けたことで技術、肉体、練習への意識が結実し大学の伸びしろ、強さに繋がった。
―この道が正解なのか、先の見えない努力の厳しさは分かるような気がします。
野村 柔道で自分の軸をつくり一生懸命やろうというスタンスは変わりません。更に言えば、小学生では週4回、中学3年では週6回学習塾に通いよく勉強もしました。柔道でヘトヘトで「もう勘弁してよ」と思いましたが、スポーツと机を前に学ぶ習慣が自然と身に着いていた。そこは両親に感謝ですし、奈良教育大学での教育学修士や弘前大学でスポーツ医学を学び医学博士修得に繋がっています。努力は簡単には報われませんが、努力無く目標には辿り着きません。他方、真剣な努力はその時、結果に届かなくても成長、糧になり、新たな可能性も手繰(たぐ)り寄せます。不器用だけど目標に真剣に取り組む人に関わりたいし、力になりたいと思う。人との出会いも含め、先を見据え一生懸命頑張ることは大切です。
▶意識、継続、真剣な努力が結実したオリンピック3大会連続金メダル
―その結果、1996年に金メダルを獲得されました、その時の心境は?
野村 始めてオリンピックに出場した大学4年生、無名の自分への世間の期待値の低さに対し、軽量級日本柔道の代表として負けられないとの使命感と自らへの期待感は強くありました。その中で夢にも描けなかったオリンピックの舞台、プレッシャーや責任感、緊張感、弱気な自分も抱えながら、自分の持てる全ての力を発揮し勝ち得た世界一、その瞬間は無上の喜びでした。と同時に全てをかけて挑む価値、オリンピックの凄さに「オリンピックって凄げぇなぁ」と再認識したことを覚えています。
―そして2回目、3回目へ更に自身を高められた。
野村 4年に一度のオリンピック、そこに辿(たど)り着くまでは非常に厳しい道のりでした。だからこそ目指す過程に意味が出てきます。過程に満足し始めると成長は終わります。やらされる練習で強くなる選手もいますが、その環境から離れると自分を作り上げられなくなります。だから常に自分で考え、主体的に臨む姿勢が大切なのです。これは仕事含め全てに通じます。柔道をやり始めた頃は弱かったけど楽しかった。しかし世界一を目指す過程においては厳しい練習、プレッシャー、挫折等、楽しむ余裕はなかったが、自分が決めた明確な目標と根底にある柔道が好きという気持ちが自分を支えてくれた。その結果、オリンピックでしか味わうことのできない喜びと感動を感じることができました。
▶色々なことに興味を持ち、大切に出来るものを見つけてほしい。
―引退後、起業され新たな挑戦が続きます。
野村 2015年40歳で引退。体はボロボロでしたが、やり切った感があった他方、心に穴が空いた感じで…しばらくスポーツキャスターや講演活動など求められる仕事を頑張る中、自らのマネジメント会社を起業。現役選手の目標の実現に、自分の経験や人脈を活かし力になれるようサポートもしています。又、柔道教室「野村道場」を立ち上げ、子供達に向けて柔道の魅力、素晴らしさ、楽しさを伝える活動に力を入れています。
―最後にU―18、そして頑張る全ての人にメッセージをお願いします。
野村 自分は柔道と出会い本当に幸せと思えます。一方で野球、サッカー、水泳など他のスポーツを経験したことで、柔道の魅力を感じ自らやりたいと思えることができたし、目標に真剣にもなれます。皆さんには色々なことに興味を持ち、積極的に行動し、多くの経験と選択肢を得て、大切にできるものを見つけてほしい。自分が18歳の頃、金メダリストなんて誰も思っていなかった、しかし未来はどうなるか分かりません。今上手くいかなくても、可能性を求めてひたむきに頑張ることが大切です。